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東京地方裁判所 平成3年(ワ)7319号 判決

原告

大塚恒夫

原告

大塚仁美

右法定代理人親権者父

大塚恒夫

右両名訴訟代理人弁護士

弘中惇一郎

加城千波

被告

大高憲二

右訴訟代理人弁護士

加藤済仁

松本みどり

岡田隆志

主文

一  被告は、原告大塚恒夫及び原告大塚仁美に対し、それぞれ金一一〇万円及びこれに対する平成二年一〇月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実及び理由

(略称)以下においては、原告大塚恒夫を「原告恒夫」、原告大塚仁美を「原告仁美」、原告恒夫の妻亡大塚昭子を「昭子」と略称する。

第一  請求

被告は、原告らに対し、それぞれ金一〇〇〇万円及びこれに対する平成二年一〇月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、昭子の夫及び子である原告らが、昭子の乳癌の治療が手遅れになって昭子が死亡したのは、医師である被告が昭子の右乳房の腫瘤を認めながら、直ちに乳癌の確定診断をなしうる検査設備の整った専門医に転院させなかったためであるとして、不法行為に基づき、被告に損害の賠償を求めている事案である。

一  争いのない事実

1  原告恒夫は昭子の夫であり、原告仁美は原告恒夫と昭子との間の長女である。

昭子は、昭和一七年一〇月五日生まれの女性で、平成元年九月三〇日当時、四六才であった。

被告は、東京都江東区北砂二丁目一四番二〇号において「北砂クリニック」という名称で産婦人科を開業する医師である。

2  平成元年(以下、特に明示しない限り、全て平成元年をいう。)九月三〇日、昭子は右乳房外側上方にしこりを感じ、被告に受診した。被告は、昭子に対し、触診及び超音波検査を行い、超音波検査の結果により不鮮明ながら三センチメートル×三センチメートル大の腫瘤を認め、昭子に生理後に再度受診するよう指示した。

3  昭子は一〇月七日、更年期障害の薬を取りに被告に受診した。被告はこの日には生理前ということで昭子の乳房を診察していない。

4  昭子は生理後の一〇月二一日、被告に受診した。被告は、昭子に藤崎病院(東京都江東区南砂一丁目二五番一一号所在)への紹介状を渡し、昭子は、同日、藤崎病院の外科に受診した。

5  昭子が被告に受診した当時、昭子は乳癌にかかっていた。

二  争点

1  九月三〇日の時点で被告が昭子に対して検査設備等の整っている専門医の診察を受けるように指示する義務があったか。

2  被告に右の義務違反(過失)が認められる場合に、被告の右過失と昭子の死亡との間に因果関係が認められるか。また、仮に右の意味での因果関係が認められないとしても、期待権侵害もしくは延命利益の侵害として慰謝料請求が認められるか。

三  争点に関する当事者の主張

1  争点1について

(原告ら)

患者が乳房にしこりを発見し、乳癌を疑って診察を求めて来た場合、触診、超音波検査、レントゲン検査、組織診などの検査を行えば、乳癌かどうかはほぼ判明する。したがって、触診、超音波検査により相当の大きさの腫瘤を認めた場合、その腫瘤が良性か悪性かを積極的に検査し、悪性(癌)の場合は早期に治療することが必要であり、検査を行う設備がない場合には、医師として、そのような設備のある病院へ患者を転院させるべき義務がある。

被告は、九月三〇日の時点で、超音波検査によって昭子の右乳房に三センチメートル×三センチメートル大の腫瘤を認めたのであるから、昭子の年齢を考慮すれば、乳癌の可能性を疑い、直ちに確定診断の可能な専門医に転院を指示すべきであった。しかし、被告は昭子の腫瘤を乳腺症によるものと誤診し、あるいは昭子に対し「生理後にもう一度来るように」との指示を与えて漫然と経過を観察しようとしたのみで、右の指示義務を怠ったものである。

(被告)

原告の主張する、九月三〇日の時点における昭子に対して専門医に転院を指示すべき義務の存在を争う。

被告が、九月三〇日の時点で、昭子の腫瘤について乳腺症と診断したとの点は否認する。被告は、右乳房腫瘤であり、癌の可能性もあるものと診断していた。

乳房のしこりの診察には触診が最も重要であるが、乳房は生殖器の一つで、内分泌環境の変化によって機能的、形態的に著しい変化を示すため、生理前においては触診による正確な判断が困難な場合があり、触診は生理後に行うのが原則である。九月三〇日に被告が昭子を診察した時には、昭子の乳房は圧痛や乳緊が強く、触診により必要な所見をとれなかったのであるから、このような場合、生理後に再度触診するのが臨床の一般であり、生理を待ったからといって極端に乳癌が進行することはない。

したがって、九月三〇日の時点で被告が昭子に生理後に再度受診するように指示したことは何ら過失はない。

2  争点2について

(原告ら)

一般に、乳癌は早期発見・早期治療によって良好な予後を期待できるものである。乳癌についてはその進行度合により臨床病期を第一期から第四期までに分類する(後期になるほど病状が進んでする。以下例えば臨床病期第二期のことを「ステージⅡ」という。)が、ステージⅡの時点で即時に手術をした場合の患者の五〜一〇年生存率(五年後あるいは一〇年後に患者が生存している統計的割合)は、七〇〜八〇パーセントである。九月三〇日の時点で被告から外科医の診察を受けるようにとの指示があれば、昭子が直ちに外科医に受診したことは明らかであり、その時点で乳癌であることが判明したはずである。その時点では、昭子の乳癌はステージⅡであった。それにもかかわらず、被告がその時点で外科医の診察を受けるようにとの指示をしなかったために、一一月二日の時点では腫瘤が七センチメートル×7.6センチメートル大にまで大きくなり、ステージⅢ又はⅣになり、五〜一〇年生存率は著しく低下したものである。

したがって、被告の過失と昭子の死亡との間には因果関係があるということができる。

また、完全な因果関係が認められないとしても、本件のごとく救命できたかどうかが確率としてしか言えない場合には、その確率に応じた因果関係及び責任が認められるべきである。本件では、原告が請求している金額の程度の割合での因果関係が認められるべきである。

仮に、被告の過失と昭子の死亡との間に因果関係が認められない場合であっても、昭子は被告の過失によって本来受けられるべき治療の機会を奪われたのであるから、期待権の侵害又は延命利益の侵害として、原告が請求している金額の慰謝料が認められるべきである。

(被告)

因果関係を否認する。

九月三〇日の時点における昭子の乳房の腫瘤の大きさについては、被告が用いた超音波検査装置が3.5メガヘルツという乳房の腫瘤を診断するには不十分な超音波によるものであることから、客観的に三センチメートル×三センチメートルの大きさであったということはできない。また、この時点でリンパ節についてはどのような状態であるか分からなかったものであり、リンパ節転移がなかったとは言えない。したがって、この時点における昭子の乳癌がステージⅡであったということはできない。

また、乳癌の疑いのある患者が手術可能な医療機関を受診してから手術まで一か月程度かかることが一般的であり、本件ではたまたま早く手術できたに過ぎないから、被告が九月三〇日の時点で直ちに乳癌の疑いでその検査、治療のために適切な医療機関に紹介したとしても、手術が行われた日時は、現実に行われた一一月二日と変わらなかったはずである。したがって、この点からも因果関係は認められない。

第三  争点に対する判断

一  (本件で証拠上認定される事実)

(一)  甲一の一から六まで、二、三、八の一から四まで、一〇、一一、一三の一から八まで、一四、一五の一から九まで、乙一から三まで、証人浅沼、原告恒夫本人、被告本人によれば、以下の事実を認めることができる。

1 昭子は平成元年九月当時において、更年期障害の症状を訴えることがあり、月経の周期も不順であった。

2 九月三〇日に昭子が被告に受診した際、乳緊が強く、圧痛もあり、被告は十分な触診ができなかったが、腫瘤の存在を認め、その大きさを測るために、超音波検査を実施したところ(但し、被告の病院には3.5メガヘルツの波長の超音波の検査機器しかなく、深層の状態の検査には適するが、乳房の検査には正確性を欠くものである。)、三センチメートル×三センチメートル大の腫瘤を認めた。しかし、被告は十分な触診が実施できず、乳腺症か乳癌かの確定診断ができなかったので、生理後に再度受診するよう指示した。なお、被告は腋下を触ってみたが、触診ではリンパ腺の異常は感知しなかった。

(原告らは右九月三〇日の受診の際に被告が昭子の乳房のしこりを乳腺症と確定的に診断(誤診)し、その旨を昭子に告げた旨を主張する。甲一の五、一〇、一一及び原告恒夫本人の供述中には右主張に沿う部分があるが、被告が昭子に生理後に再度受診するよう指示したこと(争いがない)及び乙一から三までの被告の診療録の記載に照らすと、これらの証拠をもって原告の主張を認めるには足らないものというべきである。)

3 昭子が生理後の一〇月二一日に被告を受診した際、昭子の乳房の状況はしこりの動きが悪く、ごつごつした感じがあり、皮膚のひきつれもあった。

4 同日、被告から昭子を紹介された藤崎病院では、昭子に対し細胞診の検査を実施した。この結果が一〇月二六日に判明し、昭子の病状は悪性の腺癌と判定され、同月二八日、藤崎病院から昭子に連絡があり、乳癌になる恐れがあるので即時入院して手術をするようにとの指示があった。

5 昭子は、藤崎病院からの指示を被告に伝え、被告から紹介状を得て、同月三〇日に、国立ガンセンターに受診した。その結果、触診で7.6センチメートル×七センチメートル大の乳腺全体に広がる硬い腫瘤があり、リンパ節には触知がなく、ステージⅢの乳癌との診断を受けた。しかし、国立ガンセンターに空きベッドがなく、同センターでは手術まで三〜四週間かかる見通しであったため、同センターの紹介により、緊急に手術ができる態勢にあった北里研究所病院に同日午後赴き、一一月一日に入院し、一一月二日、右乳房切除の手術を受けた。

手術当時の昭子の右乳房の腫瘤の大きさは触診では7.6センチメートル×七センチメートル大、超音波検査(一一月一日実施)では五センチメートル×5.7センチメートル大であり、手術の結果、腫瘤が肉眼的に最大径約九センチメートル×9.5センチメートル大で、リンパ節に硬い転移が多数認められ、浸潤性腺管癌の硬性癌であった。

6 手術後、昭子は、北里研究所病院で放射線治療等を受け、平成二年一月一二日退院したが、その後、乳癌からの転移による皮膚癌を発病し、同年九月一〇日再入院し、同年一〇月三日、乳癌を原因とする癌性胸膜炎、心嚢炎で死亡した。

7 被告は昭和六二年八月から東京都江東区北砂二丁目で産婦人科を開業し、江東区の成人健康診査実施医療機関名簿に乳癌及び子宮癌の検診医として紹介されている。ただ被告が現実に乳癌患者を診察したのは、昭子の他には以前に一人の乳癌患者の例があるのみであった。

(二)  甲四から七まで、九の一から五まで、一六から一九まで、乙四から九まで、証人浅沼、同近藤、同土橋によれば、以下の事実が認められる。

1 乳癌は体表臓器である乳房に発生するため、視診、触診による診断が他の癌に比較して容易である面があるが、一方で乳房にしこりがあってもそれが乳癌であると速断することはできず、乳腺症、乳腺線維腺腫特に乳腺症との区別が診断上問題となる。乳腺症はホルモンの変化に対する乳腺の反応として出現する生理的な現象であり、乳房内のしこりという点で乳癌との判別が困難な場合がある。乳癌は日本では四〇才代から五〇才代に出現することが多いのに対し、乳腺症は三〇才代、四〇才代に多いこと、乳腺症は左右両方の乳房に出現するのが通常であるのに乳癌はむしろ片側のみの場合が多いこと等の差異はあるものの、乳癌と乳腺症との区別は、熟練した技術による触診及び場合によって触診を補助する診断法としての超音波(エコー)診断法及びマンモグラフィー等を用いることによって初めて可能となる場合も多い。

2 乳癌は臨床的進行度を表現する臨床病期分類として、TNM分類(原発腫瘤(T)、所属リンパ節(N)、遠隔転移(M)の三項目について、それぞれの程度に応じて、T分類(腫瘤の大きさにより分類)、N分類(リンパ節転移の有無による分類)、M分類(遠隔転移の有無による分類)に分け、これらの項目の組み合わせにより、病期をステージ0、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲa、Ⅲb、Ⅳに分類するもの)が用いられ、その病期によって、予後の生存率が大きく違うとされている。Tについては、腫瘤の大きさ(最大径)で分類し、触診又はマンモグラフィーにより、直径二センチメートルまではT1、直径五センチメートルまではT2、直径5.1センチメートル以上はT3とされている。Nについては、患者腋窩リンパ節を触れないものをN0、触れても可動性のあるものをN1a、転移と考えられる硬いものをN1b、腋窩リンパ節が周囲組織又はリンパ節相互間の固定をみるものをN2、鎖骨下または鎖骨上窩リンパ節を触れ転移ありとされるもの、または上腕浮腫のあるものをN3とするとされている。Mについては、遠隔転移の見られないものをM0、遠隔転移のあるものをM1とするとされている。そして、T2M0N0はステージⅡ、T3M0N0はステージⅢに分類する、つまり腫瘤の大きさが五センチメートルを境にステージⅡとステージⅢとを区別するのが一般である。

乳癌の進行速度については、ダブリングタイム(癌細胞の数が二倍になる時間。腫瘤の大きさ・直径はダブリングタイムの三倍の時間で二倍になる。)に関する研究がなされており、わが国における研究によれば、ダブリングタイムの分布は、0.2か月から無限大にまで及び、一か月以内のものが二一四例中三五例あったとされている。また、米国における研究によれば、ダブリングタイムが三〇日以内のものが全体の一六パーセントを占めたとされている。そして腫瘤が大きくなるとリンパ節、他臓器への転移の可能性も大きくなり、手術後の回復、救命の可能性に大きく作用する。これらの点からいうと、乳癌の治療においても、可能な限り早期発見・早期手術が必要であるということが一般的な医学的知見であるということができる。

二  (第二の一の争いのない事実及び第三の一の認定事実を前提とする判断)

(一)  争点1(被告の過失)について

本件において、被告が右乳房のしこりについて初めて昭子を診察した九月三〇日の時点で昭子が乳癌にかかっていたこと自体は、当事者間に争いのないところである。もっとも原告も、その際に被告が昭子を乳癌と確定診断して他の病院に手術のため送らなかったことを過失として主張するものではなく、九月三〇日の時点で被告が昭子に対して直ちに確定診断をすることが可能な専門医の診察を受けるよう指示すべき注意義務があるのにこれを怠り、生理後にもう一度来るようにとの指示を与えたのみで漫然と経過を観察したことを被告の過失と主張している。

1 (九月三〇日における被告の診断の内容)

昭子は、自ら右乳房にしこりを感じ、被告に受診し、被告は、触診で一方の乳房のみに腫瘤らしきものを認め、超音波検査で不鮮明ながら三センチメートル×三センチメートル大の腫瘤を発見したこと、当時、昭子は四六才であってわが国において乳癌が最も多く発見される年齢層に属していたこと、乳腺症の場合左右両方の乳房に腫瘤が出現するのが通常であるところ、腫瘤が一方の乳房にしか認められなかったことなどからすると、被告としては、この時点で昭子の腫瘤が乳癌である可能性を相当程度疑うべきものであったということができる。

ところで、原告らは、被告が昭子を乳腺症であると診断し、その旨を昭子に告げた旨主張し、他方、被告は、当時乳癌の可能性があったことを認識しており、乳腺症と診断したことはない旨主張する。第三の一の2で認定したとおり、本件において被告が九月三〇日の時点で乳腺症と確定的に診断したという原告らの主張は採用できないが、一方、被告が昭子の腫瘤が乳癌である可能性を相当程度あるものと考えたとする被告の主張も次に述べる理由で疑問があるというべきである。被告本人は九月三〇日の診察で昭子が乳癌にかかっている可能性を半々であると判断したと供述している(本人調書一一ページ及び三九ページ)が、仮にそう判断したとするなら乳癌を診断した経験がそれ以前に一例しかない被告としては自ら経過観察をすることなく直ちに他の乳癌の専門医に昭子を紹介する行動に出るのが自然であろうと考えられる。また、被告は昭子にもし腫瘤が悪性のものだとすると、予後は悪く、亡くなっている人もいる旨を話していることが認められ(甲二、被告本人)、乳癌の可能性を十分認識した医師の言動としては、あまりにも非常識である。さらに、一〇月七日に昭子が来院した際被告は触診もしていない(いかに生理後にくるように指示したとしても、相当程度乳癌を疑っていたのであれば、触診を試みるなどするのが自然であろう。)。これらの事実並びに甲一三の三(被告から藤崎病院に対する紹介のメモ)及び甲一五の五(被告から国立ガンセンターに対する依頼状)の記載内容を総合すると、九月三〇日の時点では、被告はむしろ乳腺症を強く疑っており、乳癌の可能性を否定していたわけではないが、その可能性は低いと考えていたものと認めるのが相当である。右認定に反する被告本人の供述は採用できない。

2 (生理後の再診を指示したことの相当性)

患者の右乳房のしこりの訴えを受け、触診で腫瘤らしきものの存在を認め、超音波検査で不鮮明ながら三センチメートル×三センチメートル大の腫瘤を発見した被告として乳癌の可能性を相当程度疑うべき注意義務があることは前述したが、その場合、自らは乳癌診断には不十分な超音波検査の設備しかなく、マンモグラフィーの設備もなく、また、乳癌手術の態勢をとれない被告として、昭子に対してどのような指示を出し、あるいは処置をすべきであったかを検討する。

被告は、乳癌の診断には触診が最も重要であり、生理前には痛みなどの理由で触診を十分できないことがあること、乳癌の進行は通常はそう急激なものではないので触診が十分できなかった場合には、生理後に再診を指示すれば足りる旨を主張する。確かに、乳癌の診断方法としては、触診により腫瘤の大きさ、硬度、境界の性状、可動性、リンパ節転移の有無などの所見を得ることができ、重要な方法といえる。しかし、他方、触診は、診察医の経験により差がみられ、触診のみで乳癌の診断をするには豊富な経験を必要とすること、また、触診のみでは確定診断の困難な乳癌についても超音波検査、マンモグラフィー、細胞診等により客観的な所見を得ることができ、これらを併用することにより乳癌かどうかの診断が高度の蓋然性をもって可能になったこと、一方、乳癌の進行速度には様々なものが見られ、早いものは一月以内に癌細胞の数が二倍になる乳癌も相当の確率で存在していることなどの点を考慮すると、単に自己の触診が十分に行えず、乳癌か乳腺症かを確認するだけのために、触診が容易になる生理後に再診するよう指示したことは、本件における九月三〇日の時点での昭子の状況を前提とするとき、第三の一(二)2で述べた乳癌の早期発見・早期手術の必要性の観点からは、不十分であり、医師としての注意義務を尽くしたものとはいえないというべきである。なお、被告が昭子に対して生理後に再診を指示したのは、基本的には前記認定のとおり被告が昭子の乳癌の可能性を低いものと考えていたことがその大きな理由であったと考えられる。

被告は乳癌の診察、治療の臨床の現場では、癌の手術は必ずしも一刻を争うものではなく、診断がついてから手術までに一か月程度かかることは通例であること、乳癌の疑いが少しでもあれば直ちに適切な医療機関に転院させなければならないとすることは、医療機関の対応能力を超えるものであると主張する。しかしながら、乳癌が疑われる患者に対してどのような処置を行うことが医師に求められるべき注意義務とされるかという点については、診察の時点でのその患者の具体的状況によって異なるというべきであり、本件においては、九月三〇日の時点での昭子の状況からするとき、被告の右主張は、前述した理由により採用できない。

(二)  争点2(因果関係)について

1 発生した損害に対して被告が賠償責任を負うには、発生した損害と被告の過失との間に相当因果関係が必要であり、単に条件関係の存在のみならず、その過失から損害が発生したといえることが社会通念上相当であることが要求され、右因果関係の立証責任は原告にあるのが原則である。しかしながら、因果関係に関する原則的な立証責任論は、発生した損害とその原因となる行為との間の条件関係が客観的に存在するか存在しないか(原因となる行為がなかったならば、損害が発生しなかったかどうか)が立証できることを前提とした議論であり、本件のように、医師の作為義務違反が問題となる事案、即ち被告が昭子を早期に転院させて早期に手術を実施しても、その再発のおそれが残るため、予後(生存率)が可能性(統計的な割合)でしか評価できない場合においては別個の考察が必要である。即ち、期待される作為義務(本件でいえば九月三〇日の時点での転院させる義務)が果たされていたら、その結果として昭子の死亡が起きなかった可能性が具体的な数字をもって立証される場合には、作為義務違反の過失と結果との間に、右数字の割合に応じた因果関係の存在を認めた上で、その割合による責任を被告に負わせることが相当である。

2 本件においてまず問題となるのは、仮に被告が九月三〇日に昭子を転院させたとしたら、乳癌の確定診断を受けた上で昭子の手術がいつ行われたかということである。被告はこの点について九月三〇日に転院させたとしても臨床の実際においては、昭子の手術が現に行われた一一月二日と大差ない時期にしか手術は行われなかっただろうと主張する。しかしながら、本件におけるその後の経緯を見ると、昭子が一〇月二一日に藤崎病院において細胞診の検査を受け、その検査の結果乳癌にかかっていることが判明した一〇月二六日以降、国立ガンセンターで手術のため空きベッドがないことから急遽その空きベッドがあった北里研究所病院に一〇月三〇日に赴き、一一月一日に入院、一一月二日に手術という迅速な措置が採られているのであって、一一月二日に北里研究所病院で手術ができたのはたまたま同所で空きベッドがあったからに過ぎないと評価することはできない(なお、証人浅沼の供述中には、右のような評価と同旨とも受け取られるような部分があるが、同証人の証言全体としてそのような趣旨のものでないことは明らかである。)。右の経緯によるとき、九月三〇日に昭子が転院(転院先は藤崎病院と仮定してよいであろう。)していたとしたら、手術の時期は九月三〇日から、一〇月二一日と一一月二日の間の一一日間(現実の間隔)と大差ない間隔を置いた期間内に乳癌手術を受けたと想定することができる。

従って本件において、被告の過失(作為義務違反)と昭子の死亡の結果との因果関係を検討するにあたっては、九月三〇日から一一日の間隔を置いた一〇月一二日前後において乳癌手術が行われた場合の昭子の生存率と、一一月二日の乳癌手術の結果としての昭子の生存率の間で具体的な数字の差異が立証されたか、あるいは具体的な数字の差異までは立証されないとしても、無視しえない差異があることが証拠上認められるかということが問題となる。

3 原告は九月三〇日における昭子の病状がステージⅡであり、一一月二日がステージⅢであって、ステージⅡで乳癌手術をした場合の五年生存率が八四パーセントであるのに対して、ステージⅢの場合は50.4パーセントであると主張する。しかし、まず第一に一一月二日(現実の手術の日)と比較すべきは2で述べたとおり一〇月一二日前後の日であって九月三〇日ではない。さらに九月三〇日の時点で昭子の乳癌の病状がステージⅡであったか否かについても、被告の腋下のリンパ節の触診も不十分なものであった(被告本人)し、被告が実施した超音波検査の機器自体乳房の検査には正確性を欠くものであったこと、昭子の腫瘤はその形状、内容からして超音波検査による測定より実際の大きさがより大きい性質のものであったこと(証人浅沼、同近藤)からして九月三〇日に腫瘤の大きさが五センチメートル以下であったという認定はできず、これらの点からいうと、一〇月一二日前後に昭子の病状がステージⅡであったことの証明がないものというべきである。したがってこの点を前提とする原告の主張は採用できない。

4 しかしながら、九月三〇日と一〇月二一日における昭子の症状には、例えば、一〇月二一日には九月三〇日の時点で見られなかった皮膚のひきつれ、腫瘤の動きが悪くゴツゴツした感じになっていたこと等の変化が見られたこと、腫瘤の大きさについての超音波検査の結果は九月三〇日時点で三センチメートル×三センチメートル大という一応の測定結果だったのに対し、一一月一日には五センチメートル×5.7センチメートル大という測定結果になっていることの事実に照らすとき、九月三〇日と一〇月二一日(あるいは一〇月一二日前後と一一月二日)の両時点を比較した場合の昭子の乳癌の病状の変化は無視しえないものがあったというべきであり、このことからいうと、一〇月一二日前後と一一月二日の乳癌手術による生存率を比較した場合、具体的数字で表すことはできないものの、無視しえない生存率の差があったと認めることができる。従って右に述べた意味において、そしてその限度において、被告の過失と昭子の死亡との間に因果関係を認めることが相当である。

(三)  亡昭子及び原告らの損害について

前記一で認定した本件における被告の過失の程度及び二で認定した本件における被告の過失と昭子の死亡との間に認められる因果関係の限度を考慮し、かつ、死亡時における昭子の年令(四八才)を踏まえると、本件における昭子の死亡による逸失利益及び昭子自身の慰謝料のうち、被告が賠償すべき額は合計で二〇〇万円とすることが相当である。原告らは昭子の死亡によりその損害賠償請求権の二分の一ずつ(各一〇〇万円)を相続したことになる。

なお、被害者の近親者は、被害者が死亡し、又は死亡したときにも比肩すべき精神的苦痛を受けた場合に限り、自己の権利として固有の慰謝料を請求することができるものと解されるところ、被告の過失と昭子の死亡との間に認定される因果関係が具体的数字の割合まで達しないというべき本件の事実関係の下では原告恒夫及び原告仁美の固有の慰謝料の請求は認めることができない。

そして、原告らが本件訴訟の提起、追行を弁護士に委任したことは記録上明らかであるところ、事案の内容、審理の経過等を考慮すると、弁護士費用として右金額の一〇パーセントに相当する金額(各一〇万円)が相当であるから、右金額を加算して、原告らはそれぞれ一一〇万円の限度で被告に対し損害賠償請求権を有することになる。

三  以上のとおり、原告らの請求は、それぞれ被告に対して金一一〇万円及びこれに対する昭子の死亡日である平成二年一〇月三日から支払い済みまで年五分の割合による金員の支払いを求める限度において理由があるから、これを認容することとし、その余の請求はこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官菅原雄二 裁判官佐藤真弘 裁判官朝倉佳秀)

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